それは、ひとの記憶の奥深くに眠る原風景を呼び覚ます料理。羊という生き物は、古より人の営みと共にあった。その肉は濃厚にして滋味深く、焼かれ、煮られ、幾度となく食卓を彩ってきた。その中の一つ、フランス料理の技法によって、羊肉の旨味を閉じ込めた料理、それがテリーヌ・ド・アニョー（羊肉のテリーヌ）である。それは、単なる料理ではない。ひとつの芸術であり、時間をかけて創り上げられる詩である。型の中に重ねられた羊肉は、静かにその運命を受け入れ、ハーブの香りに包まれながら、低温のオーブンでゆっくりと己を変えていく。しっとりと、しかし確かに凝縮された肉の滋味。ナイフを入れた瞬間、そこには羊の記憶が刻まれている。

テリーヌとは、時間の芸術である。じっくりと火を通し、香草と香辛料に包まれて熟成しながら、その身を落ち着かせていく。ひとつの型の中に押し固められた羊の肉片は、じんわりと熱に溶かされ、脂とともに一つの塊となる。ここには鍋の中で奔放に煮えたぎるものの粗野さはない。静かに、ひそやかに、己を変容させる料理、それがテリーヌである。一昼夜をかけて冷やし、味を馴染ませる。その過程こそが、この料理に奥行きを与え、瞬間の享楽ではなく、じわりと広がる感動を生む。熟成された羊肉のテリーヌを前にすれば、酒は自然とワインへと手を伸ばす。グラスの中の液体は、静かにその芳香を解き放ち、料理と対話を始める。

心臓と舌。この二つが練り込まれたテリーヌ。羊の生をもっとも雄弁に物語る部位である。心臓は、絶えず動き続けた証。強く、しなやかで、ひと噛みすれば静かなる躍動が舌に伝わる。舌は、草を食み、水を飲み、命を支えた部位。それらがひとつの型に収められ、静かに己を変容させる。低温でじっくり火を通し、時とともに脂が絡み、旨味が馴染んでいく。その過程はまるで、長い時間をかけて熟成される記憶のようだ。その断面は美しく、肉の繊維が交差し、脂の光沢が控えめに輝く。ひと口含めば、まずは舌と心臓の力ず良い弾力と旨味が遅れて追いかけ、歯を押し返すような力強さを見せる。そして、上品に利かせた香草が静かに鼻腔をくすぐり、胡椒の刺激がひとすじの陰影を加える。

　「地元、北海道の羊で作りたい」。そう願ったのは、単なる郷土愛のためではない。羊という命を、余すところなく慈しみ、そのすべてを味わい尽くしていただきたい——その想いから、このテリーヌは生まれた。今回、用いたのは 佐呂間町「めぇ〜めぇ〜牧場」 の羊。羊の生を深く知る牧場の手によって育まれた一頭、その肉と臓腑を惜しみなく活かし、ひとつの形に結晶させたのが、このテリーヌである。シャルキュトリーを不定期に手がける当店にあっても特別な一品。まず、脂肪。その上品な甘みは、北の大地で育った証である。サフォーク種を主とする赤身は、力強くも繊細な風味を湛え、噛みしめるごとに滋味が広がる。そして、何よりも誇るべきは、このテリーヌに使われた 新鮮なレバーと心臓と舌である。羊の鼓動を司った心臓、その内奥を映したレバー。これらをひとつに閉じ込めたとき、単なる料理を超えた「物語」が生まれる気がします。

食し方は自由。何も添えず、じっくりとその味わいに向き合うのもよい。あるいは、カンパーニュやバゲットとともに、マスタードをわずかに添えてみるのも一興。果実のジャムを合わせれば、羊の持つ奥行きがさらに引き立つ。なかには、これをサンドイッチに挟み、ひと口ごとに物語を味わう者もいるという。この一皿には、羊という生のすべてが凝縮されている。それは単なる食ではなく、ひとつの旅路であり、記憶であり、敬意の表れ。